JP.PSG.FR

ジャン・ジョルカエフとユーリ・ジョルカエフ:「パルクはいつまでも胸の中」

News

ジャン・ジョルカエフ(1970-1972)とユーリ・ジョルカエフ(1995-1996)がともにクラブでの思い出を語った。

ジャンはクラブ史上で最初の方にプロになった選手で、このクラブには良い思い出がある。「パリと契約したときは本当に誇らしかった。クラブが出来上がった時、クラブの歴史が浅い時は簡単ではない。ただ、僕らの目標は偉大なことを成し遂げることだった。僕らは現在で言う2部のナショナルでスタートし、1年目で昇格することが出来た。でも、そこに到るまでに、我々は勇気と決意が必要だった。」

ユーリ:「パルクは僕の校庭だった。」

ユーリのこのクラブに対する気持ちも強い。「パリはマジカルだからね!いつも魅力的な雰囲気に惹きつけられていた。ストラスブールとモナコでの素晴らしい2年間を経て、フランスで1番のチームでやろうと決めた。それがパリだったんだ。僕は小さい頃にもこのクラブと繋がりがあった。父親が選手としてプレーしていて、子供の僕にとってパルクは校庭だったんだ。選手としてここに来る前から、ここでの思い出がたくさんあったんだ。」 

たった1年のシーズンだったにも関わらず、「蛇」の異名を持つその男は、47試合で20ゴール7アシストという記録を残し、自身のキャリアの中でも思い出に残るシーズンとなった。「ここでの悪い思い出はない。悪いときでも常に良くしようとするのがこのクラブの良さだったからね。そのおかげでインテルでプレーした時も、フランスの代表の時も素晴らしいことを成し遂げることが出来た。全てはパルクからなんだ。パルク、ファン、素晴らしい雰囲気、パリという街、これら全てが僕の力の源だったんだ。」

天才ユーリの思い出が残る中、ジャンの2年間も強くみんなの心の中に残っている:「はじめは、僕が1番経験があり、それゆえ忍耐強くもあったから、キャプテンをやっていた。こういう責任感を持てたことは本当に良かったよ」。ユーリは色々な意味で父親の跡を辿ろうとしていた:「父親が試合後のダウンに連れって行ってくれた時の良い思い出がある。良い雰囲気、ピッチとユニフォームの匂い。当時はメディアもそこまで注目してはいなかったけどそれでも心に沁みている。父親の仕事が特別であったことは知っていた。僕は父の友人、昔の選手たちを見れて光栄だったよ。彼らの絆は本物で、それもまた僕の心に残っているよ。」

ジャン:「ユーリは他と違った」

ワールドカップとユーロを制したユーリは、父の後を継ぎ、ジャンはそれが誇らしかった:「彼はたったの1年しかプレーしていなかったが、凄まじかったね。彼は皆を魅了し、ファンは彼のプレーに圧倒されていた。彼のゴール前での仕事と圧倒的なテクニックで、彼は他の選手と違いを見せていた。」 ユーリの素晴らしい1年は、UEFAカップウィナーズカップ決勝でのSKラピード・ウィーン戦で1対0で勝利したことによって、王者としてのシーズンとなった。

ユーリのデポルティーボ戦でのゴールも記憶に刻まれている:「3年連続準決勝で敗れるといったトラウマがあったから、この試合の前はプレッシャーがものすごくかかっていた。僕は怪我から復帰していて、出場したら必ず試合を決められるという自信があった。前日のトレーニングでの感触がよかったから。 チームメイトは僕が違いを見せてくれる、何かが起きると確信していた。僕もそれを感じていた」。25ヤードからの勝利を決定づけるシュートは90分に決まった。

パリジャンに値するような素晴らしいゴールだった:「そのチームにいたのは僕だけじゃなかった。ベルナルド・ラマはその試合凄かったし、フォルニエ、コレッター、ヌゴッティ、ロシュもいた…。あのゴールはみんなのゴールなんだ。選手だけでなく、スタッフやファンも含めたね。」 ユーリはバスティア戦でハットトリックを決め、パリを去ることとなった(5-1、1996年5月18日)。この様な終わり方は、彼の様な選手にはふさわしいものであった:「その試合は僕にとってのお祝いだった。ファンとの本当の絆を感じられた。最後の試合なのは知っていたし、『ユーリはマジック』というチャントは一生僕の胸に残り続けるよ。」